【 キールタン 】
キールタンとはインドで行われている神々への祈りの唄です。
歌詞は、マントラや神々の名前を繰り返し使われているものが多く、特徴としてはシンプルで、難しくなく、容易に唱え、そこ場にいる皆が歌うことができることです。
バジャンという、こちらもインド版讃美歌のような神々や神話を歌った歌のスタイルがありますが、こちらはもう少し歌詞的内容が豊かにあります。
簡単な繰り返しではない為、その歌詞を知っている人でないと、一緒に歌うことは難しくなります。
インドのお寺(マンディル)では、マントラ詠唱、キールタン、バジャンと一日そこに座っていれば、ほぼ全部出てくるんじゃないかというほど、祈りの時間は音に溢れています。
ただ、インドの一般的な参拝者さんもやはり、簡単なものの繰り返しパートの方が、やはり一緒になって歌い捧げることができるので、キールタンの時間は、皆さん大盛り上がり!
特に連呼されているパートは、大切なマントラや神々の名前だったりするので、歌い唱えながら、そのマントラの意味や神様の様相、神話のシーンと、自分自身との関係性に意識を集中させながら、胸を熱くされています。
キールタンは信仰の道バクティヨーガの中で、必ず見られ、音であることからナーダヨーガとも言えます。
と、そう書いておきながらですが、、、、
キールタンが何であると、カテゴライズする必要は全くありません。
When you want a kid to take medicine, you have to hide it in some kind of syrup.
With Chanting, music is the syrup, and Divine Names are the medicine.
Krishna Das
子供に薬を飲まそうとするなら、シロップと一緒にしてあげないといけないね。
チャンティング(キールタン)では、そのシロップが音楽で、神の御名、それ自体が薬なんだよ。
クリシュナダース
【 祈りの唄として 】
インドに行ったことがある人はご存じですが、それは日常にありふれています。
ガンジス河へ行けば、朝夕、キールタンが行われ、寺院、アシュラム道場、突如、道端で!なんてことも日常茶飯事です。
神聖でありながら、実際のところ敷居の高いものでもなく、各家庭でも行われている自然的なものです。
インドは宗教観、信仰が強い国ですから、少し日本人の私たちと感覚が違うかもしれませんね。
【 インドのキールタンと世界のキールタン 】
その2つは本質は全く同じで、その違いについて大きな問題は何もありません。
インド本来の音楽の捉え方に、和声(コード)という音の重なりで曲を支える考え方はありません。
今もインドのキールタンの場に行けば、ハルモニウムという楽器を中心に、「歌のメロディーラインをそのまま弾き、音楽を支える。」という感じです。(その中で、軸的な音だけ、2音程度で重ねることはありますが。)
楽器はもちろんインドですから、インドの楽器のみで形成されることが多いですね。
現在、世界中で歌われているインドの神々やマントラを題材にしたキールタンは、コード進行で支えられたものが多いです。(そうでない、メロディー弾きのものもありますが。)
有名な歌手をあげると、Krishna Das、Deva Premal、Daphne Tseなど大勢いらっしゃいます。
彼らの音楽もやはり、コード弾きのものが多く、中にはメロディ弾きや、ラーガをヒントにしたものもあります。
細かな奏法の違いがあれど、「誰でも気軽に簡単に歌い唱えることができる。」という目的は同じで、同じような熱をもって各地で歌われています。
【 現在の普及までの流れ 】
先に触れたように、元々、宗教的な生活とともに、どこにでもありふれているキールタンでしたが、聖者チャイタンニャ(1498年生)によって、キールタンはインド中に大ブーム的に広がることになりました。
元々、サンスクリット学者であったチェイタンニャですが、クリシュナ神への強烈な思いがあまりにも高まりすぎてしまい、
ある時、教壇から生徒に向かって黒板に「クリシュナ」の「ク」の字を書いた瞬間にもうクリシュナの意識へと誘われてしまい忘我してしまったそうです。
「もう、私は何も教えれません。。。」
と教壇を降りると、氏は、狂気と紙一重の神への信仰への道へと突入します。
「マハーマントラ(クリシュナの御名)を歌い唱えるだけでいい!」
と、教義よりも、実際に歌って踊って、、、を繰り返す人となりました。
ところが、文字の読み書きや教養が与えられていない貧困層も含め、このシンプルな教えは一躍インド中に広まりました。
また、そのすぐ後、トゥルシダースやミラバイなど、ラーマやハヌマーン、クリシュナへ強烈なバクティの心を捧げ、歌にする大聖者が現れ、このブームは更に大きくなっていきます。
さて、世界へのキールタンの普及は、常にヨーガの普及とともにあります。
(ちなみに、前述のインド内での普及の流れは、いわゆるヨーガの普及や流れとは関係なく、キールタン自体が強烈に先行してバクティヨーガを引っ張ったような印象を受けるぐらい、キールタン自体の力の凄さを感じます。)
ヨーガは、身体操作的なヨーガ以外にも、前の記事で多岐にわたると触れさせて頂きました。
インドのものであったヨーガが世界に注目され始めたのは、
例えば、1893年にシカゴで開催された世界宗教会議で演説をし大絶賛の評価を受けた、ラーマクリシュナの弟子のヴィヴェーカーナンダ。(ちなみにこの流れは、現在のラーマクリシュナミッションさんで、日本では日本ヴェーダンタ協会さんになります。)
ラーマクリシュナは元々、強烈なバクティヨギであり、その他のヨーガの道からも悟りを得た大聖者であり、その高弟であるヴィヴェーカーナンダは、タンプーラを弾きながらラーガを歌ったり、バジャン、キールタンをよく歌っていたということです。
師のラーマクリシュナはそれを聴くのをいつも熱望していたとか。
1900年代前半〜中期のラマナマハリシ(ニャーナヨーガ)。もちろん、アルナーチャラ、沈黙の教えの中でも、アシュラムではキールタンは必ず歌われます。
そして、マハリシマヘーシュヨーギー(ビートルズの師匠、TM瞑想)やISKCON(クリシュナ意識)創始者のバクティヴェーダンタ スワミ プラブパーダなどが1950〜70年代にかけてアメリカへ渡り、ハタヨーガやバクティヨーガの普及に貢献します。
ここでは割愛しますが、この流れの中でインド古典音楽もビートルズ→ラビシャンカール(シタール)という流れを汲むことになり世界的に広がることになりました。
そういえば、ビートルズのメンバー、ジョージハリソンはISKCONさんと仲良くて、マハーマントラをリリースしていますよね。
この辺りまでは、推測ですが、流派の流れの中での普及が大きかったでしょう。
今でも、日本や世界各地において、それぞれの信仰や流派における団体さんが拠点を点在し、そういったところでキールタンは歌われています。
そして、以降は、先に挙げたアーティストや世界中の文化交流の流れの中で、キールタンはより音楽的に発展を遂げ、コード弾きやインド楽器以外のものも交えながら、「インドの宗教観を強く持たない人たち」にも広く迎えられるようになりました。
その要因としては、
「強い宗教観が無くても、容易に繰り返し歌える事」
「それ自体が神聖なものであること」
などが考えられます。
実際に、筆者であるgumiもオーストラリアで一緒に過ごしたSurabiという恩師から「意味はわからなくても、とにかくこのマハーマントラを歌い続けましょう。」
と言われ、ともに過ごした時期があり、それは言葉や教鞭を越えて、内に響くものがあり、大きな魂の成長に繋がり、それは今も尚、内に 宿っていることをはっきりと感じています。
【 祈りの音楽としての私なりの考え 】
Surabiと出会ったのは私が22歳の時。今から19年前ですね。
それからというもの、自分の中心的マントラって何?と聞かれる答えるとしたマハーマントラです。
それは人それぞれ違っていいと思いますし、人生の中で自然に出会うものだとも思います。
さて、インド古典音楽と出会うよりも早くにどっぷり触れさせてもらったバクティヨーガやキールタンの世界。
自身の体験から、本当に自分を支えてくれた大切なキールタン。
以降は個人的な考えですが、、
それは、インドの神々やマントラであってもいいし、そうでなくてもいい。
アッラーを讃えた歌でも、キリストであっても、世界のなんだっていい。
そして、日本人であれば、日本の神々や仏様、お経なんかでもよい。(と個人的には思っていますが、神社仏閣当事者様側のご意見はそれ相応に正しくあると思います。)
自分に降りてきたメッセージや詞ももちろん良い。
こうでなくてはならないということは、何も無い。
楽器もなんだっていい。
詩がなくたって、楽器の音楽のみでも、神聖な音楽である。
極論、何もなくたって、耳をすませば、鳥や木々や川や海が、祈りと調和の音を奏でている。
キールタンもこうでなければならない。というは無い。
例えば、「祈りの心」がなければそれはキールタンではない。という人がいるかも知れない。
いや、少なくとも荒れに荒れてたヒッピー同然だった当時の僕は「祈りの心」など持たずにただそれをやっていた。(やるとご飯をくれるというから。。。)
もしくは、「正しい発音でないとキールタンでない。」
もちろん、確かな音で学びを基にあった方がいいとは思いますが、それでもヨチヨチでも唱え歌い、涙してしまう事はある。
それは起こってしまう。
結局のところ、
人知を超えて、それぞれの魂に宿り共鳴するもの
書けないもの
この記事はキールタンの「側面」について書きはしましたが、その「本質」は書くことができない。
まずは歌ってみよう!
3人の子供がいてね
1番上の子は大きいから、はっきりとした発音で「お父さん!」と呼ぶことができるね。
真ん中の子は少しだけ大きいから、「パーパー」みたいにそれとなく呼ぶ事ができるね。
下の子は「アーーアーー!」と叫ぶことぐらいしかできないね。
でもね、
「どの子も自分のことを必死に呼んでいるんだよ。」
とお父さんは知っているね。
呼んでごらん。あなたの神を。
心の底から、彼の方を呼んでごらんなさい。
彼の方はきっとくる。
Rama Krishna (ベンガルの聖者)
gumi
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